湯けむりの向こうで、年末を思う

2025.12.10 ・ 静岡 ・ 旅行記

湯けむりの向こうで、年末を思う

本稿は「畔蒜ジョージの萬國道中膝栗毛」の一編として記しておきたい。

伊東を訪れるのは初めてではない。

むしろ何度も来ている土地である。

それでも気付けばまた足が向いている。

旅先には、一度行けば十分な場所もある。

反対に、何度でも戻りたくなる場所もある。

私にとって伊東は後者だった。

今回の目的は湯治である。

もっとも大げさな話ではない。

ここ数か月、机へ向かう時間が長かった。

記事を書き、調べ物をし、気付けば一日中座っている。

その結果、腰が見事に悲鳴を上げた。

そこで温泉へ向かうことにしたのである。

歳を重ねると、旅の理由も少しずつ変わってくる。 若い頃は遠くへ行きたかった。 知らない景色を見たかった。 だが最近は、身体を整えるために出掛けることも増えた。 今回の伊東行きも、そんな旅である。

慣れた土地へ向かう安心感

初めて訪れる街には独特の緊張感がある。

駅へ降り立つ瞬間の高揚感も嫌いではない。

だが何度か訪れた土地には別の魅力がある。

伊東駅へ降り立った時、私は少し肩の力が抜けていることに気付いた。

道を覚えている。

街の雰囲気も知っている。

どこへ行けば何があるのかも何となく分かる。

だから急がなくていい。

旅先でありながら、少しだけ日常に近い。

それが再訪する土地の良さなのだろう。

駅前を歩く。

観光客の姿もある。

地元の人もいる。

土産物店の並ぶ通りも見慣れたものになった。

それでも海の匂いを感じると、やはり旅先へ来たのだと思う。

伊東の空気には独特の柔らかさがある。

温泉地らしいと言えばそれまでだが、何度来ても落ち着く。

旅人を急かさない街なのである。

宿へ向かう途中、私は海を眺めた。

相変わらず穏やかだった。

伊豆の海には不思議な安心感がある。

荒々しさよりも懐の深さを感じる景色だった。

仕事を持ち込む温泉旅

今回の旅は純粋な休養ではなかった。

仕事も持ち込んでいる。

ノートパソコンを開き、原稿を書く。

調べ物もする。

結局、旅先でも机へ向かっているのだから笑ってしまう。

だが自宅と違うのは、温泉があることだ。

少し作業をしては風呂へ入る。

また作業をしては風呂へ入る。

そんなことを繰り返していた。

贅沢なのか不真面目なのか分からない。

しかし腰には確かに効いている気がした。

湯へ浸かると身体の強張りが少し緩む。

長時間の作業で固まっていたものが解けていく。

若い頃には考えもしなかった旅の楽しみ方だ。

かつては観光名所をいくつ回れるかが重要だった。

今は違う。

どれだけゆっくりできたかの方が大事になっている。

年齢のせいかもしれない。

だが悪い変化ではないと思う。

旅の速度が少し遅くなっただけだ。

その分、見えるものも増えた。

窓の外の景色。

夕方の空の色。

湯上がりの静かな時間。

そうしたものを味わえるようになったのである。

これは本番ではない

もっとも、今回の湯治には裏の目的があった。

私は密かに「素振り」と呼んでいる。

年末には毎年のように長めの湯治へ出掛ける。

それが私にとっての本番だ。

一年の疲れをまとめて洗い流すような旅である。

今回はその予行演習だった。

温泉地へ行く。

身体を休める。

仕事から少し距離を置く。

そうした感覚を思い出すための旅だったのである。

野球選手が試合前に素振りをするように、私も温泉で素振りをしているわけだ。

少々妙な話ではある。

だが年末の湯治は私にとって大切な行事になっている。

一年の終わりを迎える準備と言ってもいい。

そのためにも身体の状態を確認しておきたかった。

腰はどうか。

疲れはどうか。

まだ無理が利くのか。

温泉へ浸かりながら、そんなことを考えていた。

旅先で未来の予定を考えるのも不思議なものだ。

しかし、それもまた旅の役割なのかもしれない。

今いる場所だけでなく、その先を見つめる時間でもあるのである。

夜の湯けむりの向こう

夜になると街は静かになった。

観光客の姿も減る。

窓の外には伊東の灯りが見えていた。

私は最後にもう一度温泉へ向かった。

湯けむりが静かに立ち上っている。

身体の疲れは少し軽くなった気がした。

腰も来た時ほど重くない。

もちろん完全に治るわけではない。

そんな都合の良い話はない。

だが、それで十分だった。

旅は魔法ではない。

疲れた身体を少し休ませる場所であり、固まった気持ちを少し解く場所である。

今回の伊東もそうだった。

何か劇的な出来事があったわけではない。

特別な出会いがあったわけでもない。

それでも、この街との出会いは続いている。

五度目になっても終わらない。

むしろ回数を重ねるごとに深くなっている気さえする。

湯から上がり、窓の外を見る。

夜の空気の向こうには海がある。

そして年末もまた、その先に待っている。

本番の湯治まではまだ少し時間がある。

今回はその素振りだった。

だが素振りを終えた今、年末の旅が少し楽しみになっていた。

湯けむりの向こうに見えたのは、伊東の夜景だけではなかったのである。

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