三度目の日光で、猿の背中を追いかけた

2025.07.29 ・ 栃木 ・ 旅行記

三度目の日光で、猿の背中を追いかけた

日光を訪れるのは三度目になる。

初めて訪れた時は有名な社寺に圧倒され、二度目は紅葉を追いかけて歩いた。

そして三度目の今回は、猿である。

我ながら妙な理由だと思う。

しかし旅というものは案外そんなものだ。

壮大な目的よりも、ほんの小さな好奇心のほうが人を遠くまで連れて行くことがある。

今回の日光もまた、そんな旅になった。

旅には理由がある時と、理由など後からついてくる時がある。 今回の日光行きは完全に後者だった。 ある朝ふと、猿について何か書きたくなったのである。 六十八歳にもなってそんな衝動に突き動かされるとは思わなかったが、幸いにも独り身である。誰に相談するでもなく切符を買い、気が付けば東武線に揺られていた。 体はいつまで元気なのだろうか。 まだ歩けるのか。まだ見られるのか。 そんな自問自答を抱えながら、私は三度目の日光へ向かった。

山から降りてくる気配

日光の朝は静かだ。

東京の静けさとは違う。

ここには山の呼吸のようなものがある。

少し耳を澄ませば風が木々を揺らし、水が石を撫で、鳥がどこかで鳴いている。

その気配の中を歩いていると、不思議と人間の存在が小さく感じられる。

この土地では昔から猿が身近な存在だった。

観光客にとっては珍しい動物でも、この山々にとっては古くからの住人である。

そんなことを考えながら歩いていると、私、畔蒜ジョージはいつの間にか観光ではなく訪問をしているような気分になっていた。

山の住人たちの暮らしを、ほんの少し覗かせてもらっているのである。

東照宮の華やかさと三猿

日光といえば東照宮を外すことはできない。

豪華絢爛という言葉がこれほど似合う場所も珍しい。

金色に彩られた彫刻や建築は、何度見てもため息が出る。

その中でも有名なのが三猿だ。

見ざる、言わざる、聞かざる。

誰もが知るあの猿たちである。

だが三度目ともなると、以前とは違うものが見えてくる。

有名な彫刻というよりも、人が長い年月をかけて語り継いできた知恵の象徴に思えた。

畔蒜ジョージの旅は、こうした再会によって少しずつ深みを増していく。

初めての感動とは違う静かな味わいが、そこにはあった。

川の音と杉並木

日光を歩いていると、水の音がよく聞こえる。

山から流れ出した清流は驚くほど透明で、覗き込むだけで心が落ち着く。

さらに街道沿いに続く杉並木は圧巻だった。

空へ向かって真っ直ぐ伸びる巨木たちは、まるで旅人を見守る番人のようである。

何百年も前から同じ場所に立ち続けている木々を前にすると、人の一生など瞬きほどの長さなのかもしれない。

そんな景色との出会いに、私は何度も足を止めた。

有名な観光地でありながら、日光には静かに考え事をする余白が残されている。

衝動で向かう旅も悪くない

結局、猿について何か特別な答えを見つけたわけではない。

だがそれで良かったのだと思う。

旅は必ずしも結論を持ち帰るためにあるわけではない。

山の気配と出会い、歴史と出会い、自分自身の今の体力や心境と出会う。

その積み重ねこそが旅なのだろう。

帰りの列車の窓から山並みを眺めながら、まだ歩けるな、と少しだけ安心した。

そしてまた何かに心を引かれた時には、理由もなく出かけてしまうのだろう。

そんな未来を想像しながら、三度目の日光の旅は静かに幕を閉じた。

#日光 #猿 #再訪