年齢もレトロになったので、小江戸を歩く
2025.07.17 ・ 埼玉 ・ 旅行記

川越を訪れるのは十回目くらいだろうか。
埼玉近郊に住んでいると、ふと思い立って出かけるにはちょうど良い距離にある。
だから観光というほど大袈裟なものでもない。
しかし今回は少し違った。
年齢もすっかりレトロになったところで、改めてレトロの町を歩いてみたくなったのである。
六十八歳。
昔なら立派な老人だ。
だが当人は案外そう思っていない。
気持ちは相変わらず学生時代のままで、鏡を見るたびに現実を思い出している。
そんな私、畔蒜ジョージの足は自然と川越へ向かっていた。
若い頃は古い町並みに特別な興味を持たなかった。だが六十八歳にもなると、昔のものに惹かれる理由が少し分かるようになる。そんなことを考えながら、私は久しぶりに川越の町を歩いた。
変わらない町と変わり続ける町
蔵造りの町並みへ入る。
何度見ても良い景色だ。
黒い瓦。
重厚な土蔵。
古い看板。
江戸時代そのままというわけではないが、現代の町の中に残された時間の断片のように見える。
もちろん実際には変化している。
新しい店も増えた。
観光客も増えた。
だが川越は変わりながら変わらない。
その絶妙な均衡が面白い。
私も同じかもしれない。
髪は白くなった。
歩く速度も遅くなった。
それでも中身は昔のままの部分が残っている。
川越の町並みとの出会いは、どこか自分自身との再会にも似ていた。
時の鐘が鳴る町
川越を歩いていると、やはり時の鐘へ足が向く。
観光名所として有名だが、何度見ても不思議と飽きない。
鐘というのは時間を知らせるためのものだ。
だが年齢を重ねると、時間の重みまで聞こえてくる気がする。
若い頃は未来ばかり見ていた。
今は少し過去も振り返る。
そういう年齢になったのだろう。
鐘楼を見上げながら、学生時代の友人や、既にこの世を去った人々の顔がふと浮かんだ。
旅先で風景との出会いがあることは多い。
だが記憶との出会いというのも、なかなか悪くない。
菓子屋横丁の甘い誘惑
歩き続けるうちに菓子屋横丁へ辿り着いた。
子供の頃なら目を輝かせただろう。
今でも少し輝いてしまうのだから困る。
飴。
煎餅。
芋菓子。
懐かしい香りが漂う。
観光客の子供たちがはしゃぐ姿を見ていると、自分にもそんな時代があったことを思い出す。
そして気付く。
昔は未来への期待で胸を膨らませていたが、今は過去との出会いを楽しんでいる。
人間というのは面白い生き物である。
レトロとは古いことではない
川越を歩いていて感じたことがある。
レトロとは単に古いという意味ではない。
記憶が宿っているということなのだ。
古い建物にも。
古い道にも。
古い看板にも。
そこを歩いた人々の時間が積み重なっている。
だから人は惹かれる。
途中、観光客の集団を避けようとして路地へ入ったところ、視界の端に妙な影が見えた。
一瞬、物体エックスかと思ったが、ただの郵便ポストだった。
歳を取るとこういう勘違いも増える。
だがそれも旅の一部である。
レトロになったから見えるもの
夕方になると観光客も少しずつ減っていった。
町並みが静かになる。
その時間帯の川越が私は好きだ。
賑わいの後に訪れる落ち着きには独特の風情がある。
今回の旅では特別な出来事はなかった。
大事件もない。
絶景もない。
しかし良い旅だった。
畔蒜ジョージはこれまで様々な土地を歩いてきた。
若い頃は新しいものとの出会いを求めていた。
だが最近は違う。
古いものとの出会いに価値を感じる。
それは年齢のせいかもしれない。
あるいは、自分自身も少しずつ歴史の一部になってきたからかもしれない。
川越の町は今日も変わらずそこにあった。
そして私もまた、少しだけレトロになりながら、その町を歩いていたのである。
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