二十年ぶりの木更津は、少しだけ知らない街になっていた

2025.08.14 ・ 千葉 ・ 旅行記

二十年ぶりの木更津は、少しだけ知らない街になっていた

木更津は私の生まれ故郷である。

だから旅先という表現は少し違うかもしれない。

けれど実家を引き払ってから二十年以上。

両親を見送り、生活の拠点も変わり、気付けば木更津を訪れる機会はほとんどなくなっていた。

今回の目的は墓参りだった。

ただ、それだけでは終わらなかった。

久しぶりに街を歩いてみたくなったのである。

かつて通った道。

見慣れていた商店街。

子供の頃によく遊んだ辺り。

それらが今どうなっているのか確かめてみたかった。

故郷というものは、不思議な場所だ。長く離れていても自分の街だと思っているのに、帰ってみると案外知らない景色が増えている。二十年以上ぶりに歩いた木更津は、懐かしさと少しの戸惑いが入り混じる街だった。

駅前は変わったのに、風は変わらない

木更津駅へ降り立つ。

最初に感じたのは戸惑いだった。

記憶の中にあった店がない。

建物が変わっている。

知らない看板が増えている。

駅前は確実に二十年前とは違っていた。

当然である。

二十年という時間は街を変えるには十分すぎる。

それでも歩いているうちに、どこか安心する瞬間があった。

海から吹いてくる風だ。

潮の匂い。

少し湿った空気。

それだけは昔とほとんど変わらない。

街は変わる。

だが土地の空気は案外変わらないものらしい。

私はその風との出会いに、少し救われた気がした。

失われた景色と、残っていた景色

歩いていると、記憶の答え合わせのような時間になる。

ここに本屋があった。

ここに駄菓子屋があった。

ここで友人と待ち合わせた。

だが多くはもう存在しない。

更地になっていたり、新しい建物になっていたりする。

少し寂しい。

だが不思議と悲しくはなかった。

むしろ二十年という時間の重みを実感した。

一方で、昔から変わらず残っている場所もある。

神社の参道。

細い路地。

古い住宅地の坂道。

そうした景色との出会いは、昔の自分と再会するような感覚だった。

墓参りは、会話のようなものだと思う

墓参りを終えたあと、しばらくその場に立っていた。

何か特別なことを考えていたわけではない。

近況報告のようなものだ。

元気にしていること。

まだ旅を続けていること。

旨いものを食べ歩いていること。

畔蒜ジョージの旨いめし歩きが続いていること。

生きていると色々あるが、何とかやっていること。

返事はもちろんない。

だが墓参りというのは、元々そういうものなのかもしれない。

話しかけるために行く場所である。

海の向こうに東京が見える時代

子供の頃の木更津と今の木更津では、東京との距離感がずいぶん違う。

東京湾アクアラインの存在はやはり大きい。

昔はもっと遠かった。

東京へ行くこと自体が少し特別だった。

今では通勤する人もいる。

街の性格そのものが変わったと言ってもいい。

だが木更津は完全に東京にはなっていない。

それが良い。

海があり、港があり、独特の時間が流れている。

中途半端と言えば中途半端だが、その曖昧さこそ木更津らしい気がする。

故郷は帰る場所ではなく、残る場所なのかもしれない

夕方になり、駅へ戻る。

観光地を巡ったわけではない。

特別な名物を食べたわけでもない。

それでも十分だった。

今回の木更津では、昔の記憶との出会いがあった。

変わった街との出会いもあった。

そして、変わらず残っていた風景との出会いもあった。

私、畔蒜ジョージは旅先で新しいものを探すことが多い。

だが今回ばかりは違った。

失われたものと残ったもの、その両方を確かめる旅だった。

故郷というのは帰る場所ではなく、自分の中に残り続ける場所なのかもしれない。

木更津の夕暮れを見ながら、そんなことを考えていた。

#木更津 #故郷 #墓参り #再訪